ゼロからはじめる島津大河誘致(郭隗の馬の骨) - ツイッター島津4兄弟総選挙その6 - コメント | 小説投稿サイトノベルアップ+

Mon, 29 Jul 2024 22:49:04 +0000

戦国期の九州を破竹の勢いで制した島津家。 飛躍の中心にいたのは 島津貴久 の息子たち、 四兄弟であったことはつとに有名ですが、その中でも天才的な合戦術で数多の大軍を撃ち破ったのは誰か、ご存知でしょうか。 【 島津の退き口 】で武勇轟く島津義弘――ではありません。 末弟の島津家久です。 家久の武勲は、戦歴おそろしい四兄弟の中でもアタマ一つ抜けています。 島津家躍進のカギとなった3つの大戦、 すべてで大活躍を果たしており、人気漫画『センゴク』でも人知を超えた軍神のごとく「鬼かスサノヲか」と描かれるほど異色の存在でした( →amazon )。 要は、漫画家にとっても「まるでマンガ」としか言いようのない戦歴なんですね。 では一体どんな活躍だったのか? 島津家久の生涯を追ってみましょう。 末弟・島津家久は継室の生まれに非ず 島津家久は天文16年(1547年)、島津家当主・島津貴久の四男として生まれました。 戦国最強四兄弟の父・島津貴久はどんな人?大隅を支配した島津中興の祖 続きを見る 前述のとおり3人の偉大な兄たちである義久・義弘・歳久と並んで「島津四兄弟」と評され、薩摩を盛り立てたというのは有名ですね。 その中でも家久は、戦歴が際立っているだけでなく、他の三兄弟と決定的な違いがありました。 母親です。 三兄弟の母親は入来院重聡(いりきいんしげさと)という人物の娘で、父・貴久の継室にあたる女性でした。 継室とは「正妻と何らかの形で別れた後に迎える後妻」という立場であり、身分的な格としては正室に並びます。さらに、父の入来院重聡も四兄弟の祖父・島津忠良や父の島津貴久に仕え続けた重臣であり、家内における身分も高いものでした。 一方、家久の母親は? 本田親康という人物の娘であり、そもそも親康の身分が非常に低いものでした。確かに本田氏は薩摩周辺の有力国人の一人ではありましたが、鎌倉以来の伝統を持つ入来院氏と比べれば明らかに格落ちです。 その証拠に、家久の母と貴久の間には正式な婚姻関係が結ばれていませんでした。 一言でいえば身分の低い愛人の子。 当時の血統社会では致命的なハンディであります。 そんな家久は、初陣から後の活躍を彷彿させる戦功を挙げました。 祖父・忠良「軍法戦術に妙を得たり」 家久の初陣は永禄4年(1561年)。 大隅国・肝付氏との間に勃発した【廻城の戦い(めぐりじょうのたたかい)】でした。 このとき家久はまだ15歳の若さでしたが、一説には偶然鉢合わせした敵の武将を討ちとるという大功を挙げたと伝わっています。 さらに永禄10年(1567年)からは、敵対していた菱刈氏が本拠とする大口城の攻略を担当。 後年、彼の代名詞となる「寡兵で多数の敵を誘き寄せ、伏兵で討ち取る」という戦術が垣間見える戦いぶりを披露し、ここでも度々戦功を挙げました。 他の三兄弟も初陣(天文23年=1554年)から戦場を駆け回り、度々戦功を挙げておりましたが、遅れてきた家久も負けてはいなかったんですね。 島津義久(四兄弟の長男)が九州統一に迫る!

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57 ID:s9vrM2Utd >>90 そら独眼竜よ なおワイは生まれておらんもよう 91: 風吹けば名無し 2018/03/01(木) 13:31:09. 42 ID:rMjzk7DL0 すっかり猛将のイメージがついたけどもともと三成と同じ文官やしちょっと性格の荒い吏僚福島正則を見てみたい 92: 風吹けば名無し 2018/03/01(木) 13:31:22. 21 ID:xVCxjkMVd 渡辺崋山 江川太郎左衛門英竜やろう 121: 風吹けば名無し 2018/03/01(木) 13:34:58. 34 ID:iQbyDIw4r 特に面白くないからやろ 波乱万丈でも無ければ盛大な死にかたした訳じゃないし 134: 風吹けば名無し 2018/03/01(木) 13:36:33. 95 ID:OfldKE2J0 >>121 盛大な殺し方してるやろ 122: 風吹けば名無し 2018/03/01(木) 13:35:02. 60 ID:OWBbAcQm0 わい韓国人 李舜臣をやってほしい 153: 風吹けば名無し 2018/03/01(木) 13:39:53. 40 ID:n4Lo3NdU0 >>122 当時の朝鮮のクソさを描かなきゃならんからどの道炎上しそう 132: 風吹けば名無し 2018/03/01(木) 13:36:09. 93 ID:Tr0G87/5r 三好長慶すら未だにしてない事実 133: 風吹けば名無し 2018/03/01(木) 13:36:32. 84 ID:s9vrM2Utd >>132 日本の副王!すこ 151: 風吹けば名無し 2018/03/01(木) 13:39:37. 66 ID:xi3Y0UeA0 三好長慶はバッドエンドやから無理やろ 181: 風吹けば名無し 2018/03/01(木) 13:42:09. 09 ID:GyB4T6l8r >>151 信長「せやな」 206: 風吹けば名無し 2018/03/01(木) 13:45:11. 94 ID:EkX3dssRd >>181 信長ってなんか謀反で死ぬのがハッピーエンドみたいな扱いでずるいよな よく秀吉は晩年がなぁって言われるが 謀反で死ぬ信長のほうがよっぽど糞みたいな死に方やのに なんか信長らしいわ!みたいになってる 214: 風吹けば名無し 2018/03/01(木) 13:46:14.

絵・小久ヒロ 戦国時代 2021/07/29 島津に暗君なし――そんな言葉をご存知でしょうか? 「鎌倉以来の名門である島津家は常に優秀な当主を輩出する」として称えられたもので、その始まりは 源頼朝 の 御家人 ・ 島津忠久 まで遡ります。 島津忠久から始まった 鎌倉以来の伝統ナンバー1武門・薩摩島津家 続きを見る 以来、鎌倉→室町→江戸という武家の時代を生き残り、幕末においても 島津斉彬 や 島津久光 といった優秀な人材を出しているのですから、たしかに目立った暗君はいないかもしれません。 では、そうした島津当主の中で最も優れていたのは誰か? 単純には決め難い話ですが【最も領土を広げた当主】ならば答えは出ます。 戦国時代の 島津義久 。 【島津四兄弟】の長兄であり、荒ぶる九州武士たちをひれ伏させ、九州統一目前まで御家を拡大させた稀代の当主です。 義久は一体どのようにして島津家の名を世に知らしめたのか。 その生涯を追ってみましょう。 島津義久は「三州の総大将たるの材徳自ら備わる」 島津義久 は天文2年(1533年)、島津家当主である 島津貴久 の長子として誕生しました。 母は入来院重聡(いりきいん しげさと)の娘。この重聡は、貴久の家臣にあたります。 弟の 島津義弘 と 島津歳久 も同じ両親から誕生しました。 一般的に「島津四兄弟」で知られる彼らのうち四男・ 島津家久 のみは母が違います(身分の高くない女性)。 そのため、後年に武功を挙げるまでは、現在の「四兄弟」のように語られることはなかったと思われます。 【島津四兄弟】 長男・島津義久(1533年) 次男・島津義弘(1535年) 三男・島津歳久(1537年) 四男・島津家久(1547年) 父・島津貴久(1514年) 祖父・島津忠良(1492年) ※(カッコ)内は生年 義久は、初名は忠良を名乗っていました。 時の将軍・ 足利義輝 より名を譲られたことで「義久」へ。 足利義輝(13代将軍)の壮絶過ぎる散り際!